-基調講演-

片峰 茂 (長崎大学 学長)

感染症はいかに制御できるのか

  

    感染症は21世紀人類が直面する最大の課題の一つです。世界で年間2,000万人以上のヒトが感染症で死んでいると推定され、そのほとんどが、サハラ以南のアフリカを中心にした熱帯・亜熱帯地域に集中しています。最貧国の多い途上国には、現代医学の恩恵がもたらされていないのです。そして、いま、人類は新たな感染症の脅威に直面しています。新しい感染症(新興感染症)の出現です。この30年で、エボラ出血熱、エイズ、SARSなど多くの感染症が新たに出現し、私たちを恐怖に陥れています。その多くは動物の世界の病原体が、ヒトの世界に侵入してきたものです。森林開発など様々の人為的要因で人間と動物の出会いの頻度が飛躍的に増大したことが原因となっています。そして、交通手段の発達により、ヒトやモノが国境をこえて超高速で往来する中、世界の何処かに出現した感染症が瞬時に世界中に伝播してしまうのです。
感染症はいまや重要な危機管理の対象の一つです。人類には、さまざまな感染症の流行をコントロール(制御)し予防するための知恵と努力が必要とされています。講演では、或るがん(癌)の原因ウイルス流行克服のために、長崎県という一つの地域が24年間にわたって取り組んできた事業の成果を紹介させていただき、皆さんと感染症の制御について考えてみたいと思います。

 肝がん、子宮頸がん、成人T細胞白血病(ATL)など、日本人のがんの1/4程度にウイルス感染が関っています。原因ウイルスの感染者の一部にのみ、長い潜伏期の後にがんが発生しますが、一方がん患者のほとんどはウイルスに感染しています。即ち、これらのがんの発生にはウイルス感染は必要条件であり、理論的にはもし原因ウイルスの感染を完璧に予防することができればがん発生をゼロにすることができるのです。

 ATLは1977年その存在が明らかにされ、続いて81年原因ウイルスHTLV-Iが初のヒト・レトロウイルスとして分離されました。そして、長崎県が世界最大のHTLV-I流行地域の一つであり、県民全死亡原因の1%弱(年間約100名)がATLであることが判明しました。私たちはHTLV-Iの感染経路解明と感染予防に関する研究を開始しました。まず、疫学調査と動物実験によりHTLV-Iの主要感染経路が母乳による母親から児への感染であるらしいことをつきとめました。しかし、その最終証明には感染母親から児への母乳を止めることで感染率が実際に低下することを示す必要がありました。1987年長崎県の支援のもと長崎大学と産婦人科医協会を中心に介入事業を開始しました。事業は (1)全妊婦のHTLV-I抗体検査 (2) 感染妊婦への母乳遮断の勧奨 (3) 出生児の追跡調査の3本柱から成ります。その後事業は24年間継続され今日に至っています。これまでに妊婦255,340名もの抗体検査を行い8,500名(3.3%)の感染者を見出しました。その約9割は完全断乳に同意したと推定しています。母乳栄養児の感染率約26%が完全断乳により1/10に低下し、母乳が主要感染経路であることが最終的に証明されました。感染率やATL発症率を勘案すると、本事業は約2,000件の母子感染を防止し、100例以上のATL発症を予防したと推定できます。当初5%を上回っていた県内の感染妊婦比率は、事業始後に出生した女児が妊婦集団の主体となる5年後には、1%を大幅に下回ると予想され、次世代には年間ATL発症ゼロを展望できるところまできました。このまま推移すれば地域内ウイルス感染の予防による癌(ATL)征圧という世界にも類例のない成果となるはずです。