保全医学と生態系の健康
村田浩一(日本大学生物資源科学部 教授/よこはま動物園ズーラシア 園長/日本野生動物医学会 会長)
多くの人々は、保全医学(Conservation Medicine)という言葉を初めて耳にするかもしれない。それも当然のことで、本学問領域が産声を上げたのは1990年代後半であり、初の教科書とも言える会議報告書(”Conservation Medicine: Ecological Health in Practice”)が出版されたのは2000年代に入ってからである(Alonso et al., 2002)。しかし、本書の出版が大きな契機となり、保全医学に関する研究が先進諸国で急速に展開されている。
保全医学は、「ヒトの健康、動物の健康および生態系の健康に関わる研究分野を統合する学問領域」と定義されている(Tabor, 2002)。また、保全医学が目指しているのは、人間や家畜などの動物を縦割り的に区別した健康概念ではなく、それらの相互関係の中で維持される単一かつ横断的な健康、すなわち”One Health”であり、そのために必須となる生物多様性(Biodiversity)の保全である。本学問領域は、健康や医療に関係する学問領域を連携させ、生態学的健康(Ecological HealthもしくはEcohealth)を維持するための学際的で実践的な研究分野と言える。
保全医学における感染症対策は、病原体と宿主を取り巻く有機的および無機的環境の相互関係を理解し、それらの微妙なバランスで成り立っている生態系を考慮して図られる。とくに新興感染症(Emerging Infectious Diseases: EID)については、その原因が野生動物の生息域への人間の侵入であり、そのことから生物多様性の維持が根源的な発生予防につながることを強く認識している。
霊長類の自己治療行動—予防と治療
ハフマン・マイケル /京都大学霊長類研究所 准教授
チンパンジーを初めとする野生霊長類は日常、栄養価に富んだ果実や葉、若い芽などを食べるが、それ以外に、特殊な二次代謝産物を含む多くの植物の部位を食べる。栄養的には乏しいと考えられるこれらの種あるいは部位の非栄養的採食意義に、ここ数年、興味がもたれ、その一つとして薬理的効果が指摘されている。更に、非栄養的なある種の植物を食べると、寄生虫感染症の制御や、その二次的病徴である腹痛の治癒などに有効であるとする仮説が、アフリカの大型類人猿(チンパンジーとゴリラ)研究により実証されてきている。
すなわち、東アフリカのチンパンジーにおいて、強烈な苦味をもつ髄部液を摂取し、又は葉をそのまま呑み込むといった行動が生態学的・寄生虫学的解析から寄生虫感染症の軽減に役立っていることが知られている。寄生虫は多くの病気を誘発し、個体それ自身の行動や、繁殖能力にも影響を及ぼす。したがって、これらの悪影響を取り除くことは重要である。寄生虫感染症が宿主へ与える影響や、感染した際の宿主への反応は、長い進化の過程で培われてきた産物であることは間違いない。アフリカの大型類人猿についての最近の研究は、偶然ではなく、薬効を期待してある種の植物を積極的に摂取していることが示唆されている。一方、マハレ山塊国立公園周辺では、ヒトとチンパンジーでよく似た病徴を示す疾病に対し、同じ植物を選択することが知られている。この事実から、両者が系統的にもっとも近縁であるため、又は人間が伝統的に動物の行動を観察することによって、新しい「薬」を得ってきたという2つの説明ができる。
アフリカの大型類人猿やその他の野生霊長類の自己治療研究には、ヒト、家畜、飼育動物などの寄生虫感染症を効果的に治療することに対する天然物の有効利用や新しい治療方法の提供についての期待を抱かせるものである。
蚊が運ぶ病気と生態系の構造
津田良夫 /国立感染症研究所 昆虫医科学研究室 室長
蚊は生態系の分解者として、また天敵生物の食物源として生態系を支えているが、他の昆虫にはないユニークな役割を演じている。蚊は吸血習性を持つことで有名である。わが国には100種あまりの蚊が生息しているが、このうち60種ほどの蚊が人を吸血する性質を持っていると言われる。人を刺さない蚊の中には、大型の哺乳類を好んで吸う種類、野鳥を好んで吸う種類、カエルを吸う種類や、魚を吸う種類なども報告されている。蚊が持つユニークな役割は、この吸血習性に関係している。動物の病気の中には蚊によって伝播されるものがある。これは、病気に罹った動物の血を吸った蚊が、病原体を血液とともに体内に取り込み、別の健康な動物を吸血するときにその病原体を注入することによって起こる。
蚊が病気をうつす力は個体群の形質のひとつで、いくつかの生物学的、生態学的性質によって決定されている(例えば、病原体との親和性、吸血源動物嗜好性、成虫密度、寿命など)。これらの性質は環境条件に影響されるため、蚊の病気伝播力も時間的に変動する。蚊がうつす病気の流行が、特に媒介蚊の吸血パターンに大きく依存しているという研究例が、いくつか報告されている。
蚊の吸血パターンと病気流行の関係を考えるとき、蚊が病原体の宿主になる動物から吸血することと、宿主ではない動物から吸血することを区別することが重要である。動物群集に病原体の宿主動物が多数含まれるとき、蚊と宿主動物の接触は頻繁になり、病原体の受け渡しが容易で病気の流行も盛んになる。逆に宿主動物が少ない動物群集では、蚊が宿主でない動物を吸血することが頻繁になり、病原体の受け渡しの機会が減って病気の流行が抑えられる可能性がある。このような考えから、生物多様性と病気流行の関係に関する研究も進められている。
ダニが語る生物多様性~寄生生物の進化的重要単位の意義~
五箇公一/国立感染症研究所 昆虫医科学研究室 室長
生物多様性の保全が唱われて久しいが、生物多様性を語る上で対象となる生物は、目で見て分かる、美しい、かわいらしい、あるいは格好がいい動物や植物が主流を占める。しかし、目に見えない、(一般には)美しくない、微小な生物達も立派な生物多様性の構成員であり、重要な生態系機能を担っている。特に、寄生生物は宿主生物との間に軍拡競争的共進化をもたらし、進化や種分化の強力な駆動力として、生物多様性の創成において重要な役割を果たしている。しかし、現在の人間活動による生物の生息地の破壊や生物の人為的移送は、宿主−寄生生物間における共進化の歴史を崩壊させ、寄生生物の感染爆発というかたちで生態系や人間社会に脅威をもたらしている。
近年、問題とされる新興感染症や再興感染症も、それらの病原体生物の住処である野生生物を、人間がハビタットごと減少させたことにより、病原体微生物が生き残りをかけて、人間への宿主転換を図った結果と考えられる。寄生生物の多様性および宿主との共進化の歴史を知ることは、寄生生物との共生関係を維持する上でも重要な知見となる。
ダニはMacro-Parasite(目で見える寄生生物)群の中で代表的な種群であり、多くの人は不快なイメージしか抱かない生物であるが、その種数は分かっているだけで約5万種、未記載種を含めると100万種を超えるともいわれ、その生活史も生息場所も多岐に渡る。自由生活者、寄生者、捕食者など、彼らもまた生態系システムの中で重要な役割を果たしており、立派な生物多様性の要員である。本講演では、ダニ学者でもある講演者自身のこれまでの研究成果を交えながら、寄生性ダニと宿主生物の間に繰り広げられる共進化の世界を紹介し、ミクロな生物多様性の重要性について考察をしたい。