基調シンポジウム《発表要旨》:
「阪神・淡路大震災の経験を人と動物の幸せな未来へ —護るべき大切な日常とは? 」
日時:7月19日(日)10:00〜13:30
会場:コンベンションホール
趣旨:阪神・淡路大震災から20年が過ぎた。私たちが震災から学んだもの、それは、「日常」 の大切さである。しかし、現在の社会の「日常」は、高齢化・単身化・少子化・グローバル化等により、これまでにない様々な課題を抱えている。IT等の技術の進歩により、情報や人のつながりの多様化・効率化・高速化が進むようになったものの、そのことが逆に孤独や社会的疎外感を導き、また社会からうける過度のストレスに悩む人は増えるばかり。「ヒトは動物であり、自然の一部である」という「人」の本来の姿を模索し、それに似合った日常の過ごし方を目指す時が来ていることを、誰もが漠然と感じているのではないだろうか。私たちが守ろうとしている自然の中の「幸せな日常」とはどの様なものであるべきか。震災から20年の月日を重ねた今だからこそ、もう一度「生き物としてのヒト」という出発点に立ち返って考察を進め、ヒトを含む動物の幸せな未来へ向けての礎を再構築出来たらと願う。それが、阪神・淡路大震災20年への私たちの貢献であり、希望である。
座長メッセージ
座長:位田 隆一氏(京都大学 名誉教授/同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科 特別客員教授/同志社大学生命倫理ガバナンス研究センター長/公益財団法人 国際高等研究所 副所長)
阪神・淡路大震災からもう20年が経った。私たちはあの日以来、自然の威厳と力、そして生命の尊さを改めて心に刻み込んだ。震災からの復興は、それぞれの家族がその絆を確かめ合い、また他者への思いやりとこころの通い合いの大切さを刻む過程でもあった。それは、ただ人間の生命だけのものではない。私たち人間はこの大きな自然の中の生き物なのであり、私たちのそばにいるさまざまな生き物と寄り添いながら生きている。私たちと暮らす犬や猫、家畜、道端の花や草、一人一人、一匹一匹、一つ一つが自然の中で共に生きている。あの震災により、人と動物と自然を鼎とした新しい家族観が生まれた。
震災20年は戦後70年でもある。この間に私たちの生活は、戦争直後に比べて、いや震災前と比べても、確かに豊かに便利になった。しかし、いま何かしら豊かさの中に隙間風が吹いていないか。温暖化の進むといわれるこの地球、個人情報の飛び交う現代社会、高齢化と少子化による不均衡な世代状況…。私たちは自然から離れすぎてはいないか。人間が、動物が、植物が共生する社会を忘れて、人間さまだけの王国を作ろうとしてはいないか。私たちは、私たち自身を、周りの動植物を、環境を、もう一度考え直してもよいのではないか。
こうした視座に立ち、基調シンポジウムでは、人間・動物・自然の関係の公共性、脳科学から見た家族愛、そして生命の柔軟性という観点から、3名の先生方に基調報告をいただく。震災の年に生まれた子は二十歳の成人を迎える。20年の経験を経た大人として私たちは、地球上で共に生きるわれわれ人間どうし、人間と動物、それを取り巻く自然をもう一度見直したい。そして、この時を機会に、もう一度私たちの周りの生きとし生けるものと語り合おう。動物と、草花と、虫たちと輪を作ろう。それこそがこの20年間に私たちが立ち直り、生きてきた証しなのだろうから。
「ヒト・動物・自然の新たな公共性の模索 —文化比較の視点から」
小原 克博氏(同志社大学 神学部 教授/良心学研究センター センター長)
人間は人類同胞として互いに分け隔てなく共存してきただろうか。社会階層、人種、性別、宗教等の違いによる様々な序列化および支配と従属の関係が、今なお深刻な問題として存在している。しかし、いかに差別的な構造があったとしても、人間社会は人間中心主義であることで一貫してきた。言い換えれば、人々が生きる公共空間で、動物や自然はその周辺に位置づけられ、人間社会にいかに貢献するかによって、その価値が計られてきた。
こうした長年の構造に対し、アルベルト・シュヴァイツアーの「生への畏敬の倫理」のように人間中心主義を相対化し、人間同士の壮絶な争いの根本原因を追及しようとする考えが20世紀前半には現れてきた。また、20世紀後半には、ピーター・シンガーを筆頭に、種が違うという理由だけで動物を不当に扱うこと(種差別)は、人種差別や性差別と同様、倫理的に正当化できないという考えが徐々に広がり、各種の動物解放運動を生み出すことにもなった。
このようなラディカルな思想的変化が欧米では見られるが、日本には独自の動物観・自然観がある。ヒト・自然・動物の間の連続性が日本の宗教や文化を特徴づけてきた。そこでは自然や動物もまた「公共」「公益」の重要な一部を占めていた。しかし、それが今も同じ形で存在しているわけではなく、むしろ近代化の中で大きく変質してきている。西洋の文化と日本の文化を比較して、優劣をつけるような比較文化論では、グローバル化した時代の課題に向き合うことはできない。
近代的な公共性や公益は「現代世代」の「人間」の利益を最大化することを前提にしている。しかし、持続可能な地球環境や生物多様性を考えるとき、過剰に人間中心的でもなく、現代世代中心的でもない公共理解を再発見・再創造する必要がある。ヒトと動物と自然の新たな公共性の模索は、古くて新しい、そして洋の東西を超えた文明史的なチャレンジである。
「家族愛の脳科学」
篠原 一之氏(長崎大学大学院 医歯薬学総合研究科神経機能学 教授/医学博士)
人類において、「愛」を超える報酬はないと言われる。「愛」とは、総じて愛着関係にある特定の個体同士が抱く陽性感情で、時にはリスクや負担を伴いうる他者とも「絆」と呼ばれる特殊な関係性(安定的でかつ利他的な人間関係)の形成をもたらすことができるのである。現在、ヒトにおける様々な情動の神経基盤が明らかになりつつあるが、ヒトの「家族愛」というカテゴリーで、その構成員の間に築かれる家族「愛」の神経・遺伝基盤を解明しようという研究はない。
「家族」の構成員は、一般的には祖父母、父母、子であると考えられる。家族の生物学的意義は、一義的には子を“適切なパートナー選択”を可能にする「愛着行動」を身につけるべく養育し、更なる次世代を創出すること(子孫繁栄)にあると考えられる。子の「愛着行動」のパターンは自らの遺伝子的背景と共に、両親、祖父母の養育行動によって形成される神経基盤に基づくと考えられる。かくて、父母、祖父母の養育行動を動機づける「愛」の神経・遺伝子基盤の解明は重要である。また、子が「愛着行動」を身につけていく強い動機付けは、父母、祖父母に対する「愛」という感情であろう。しかし、幼少期の父母、祖父母に対する依存的な愛着関係は、思春期を迎えると反抗期を迎え、対象や関係性自体にも変化が生じる。親友、恋人ができ始め、社会的・性的同一性を獲得し、家族から独立し始めるのである。そして、思春期を過ぎると、家族から独立を果たした成熟した「愛」に基づく異性関係を形成し、次世代創出に向かう。この思春期前後の親に対する「愛」の神経基盤はどのように変化するのであろうか?
そこで、本セミナーでは、主に、家族「愛」の中でも、母性「愛」、父性「愛」、祖母性「愛」に加えて、思春期前後の男子の母親に対する「愛」の発達的変化について、神経・遺伝的基盤について概説したい。
「常に変化し続ける生命の柔軟な営みに学ぶ」
森本 素子氏(宮城大学 食産業学部 ファームビジネス学科教授/日本獣医師会動物福祉・適正管理対策委員会委員/宮城県動物愛護推進協議会副会長/獣医師)
ヒトを含む動物の体は細胞からできている。細胞の営みは信じがたいほど勤勉かつ精巧だ。しかし、機械とは違い、その中身は恐ろしいほど柔軟である。生き物は、間違うことを前提に命を紡いでいる。しかしその間違いをフォローする仕組みが必ず備わっているのである。だからこそ、ダメージを受けても修正できる。ちょっとやそっとの変化にはへこたれないのだ。しかも、現在想像もできないような将来の変化やダメージにも対応しようという用意がある。ヒトという個体レベルで考えてみると、昨日と今日で見た目はそう変わらない。しかし細胞はどんどん入れ替わっており、私たちは日々新しくされている。間違っても壊れても修正し、そして成長する。外圧がかかって変化を強いられる方がより成長できる場合だってある。私たちは変化しないで一つのところに留まるような選択肢はもともと持ちえないのだ。個体を構成している細胞が日々新しくされているのだから。東北では震災の後、農作物の生産や動物が生きていく環境の変化に多くの懸念が生じた。しかしその変化の中でどう生きていくのか、と誰もが考え、行動せざるをえない機会になった。震災がなければなかった出会いがあり、ネットワークが生まれた。すでに述べたように、生き物はもともと変化していくのが前提なのである。しかも、その道は一様ではない。生き物は経路を一つ壊しても別の経路で補てんするようにできている。ひとつの不具合でダメになるような仕組みではなく、何重にも経路を組んで生命を守っている。なにかことが起これば、普段使わない経路が立ち上がる。私たちは自分がこのように素晴らしい生き物であることを思い出したい。生命の柔軟性に学び、その能力をより深く知れば、もっと多くの人が希望を持って生きられるのはないか、と思う。