ワークショップⅡ「動物園におけるエンリッチメントの実際」

座長メッセージ

「動物園におけるエンリッチメントの実際」
 上野 吉一氏
(名古屋市緑政土木局 東山総合公園 企画官)

 
近年、動物行動学や比較認知科学の発展により、動物の内的世界について我々の知識は徐々に深まってきた。動物の福祉を考える上で、繁殖が上手くいくとか、病気や怪我をしないといった身体の健康に加え、苦痛や要求への配慮といった“こころ”の健康も重要な課題であることが科学的に明らかになってきた。すなわち、飼育動物の福祉を確立するためには心身ともに健康に保つように、生活環境を考える必要があると言える。その実践的な方策として「環境エンリッチメント」は考えられる。種毎に異なる環境への要求を理解し、制限された飼育 環境の中にその機能を増強するということである。

 より豊かな環境で、動物が本来の振る舞いをすることは、動物の福祉を考える上で重要なことである。同時に、動物園を訪れるものにとっても、そうした姿を見ることは楽しいものであり、また動物やそこから広がる自然の理解を促進するものになるだろう。環境エンリッチメントは、動物園で動物を飼育管理していく上で必須の技術と捉えられる。

 「環境エンリッチメント」という言葉は広く知られるようになったが、どのようなことを考える必要があるのかは日本ではまだ十分には浸透しているとは言えない。このワークショップでは具体的な事例をもとに「環境エンリッチメント」について検討していきたい。



「環境エンリッチメント:なぜ動物園の動物にとって大切か」
ジョージア・メイソン氏
 (グエルフ大学教授 動物科学)

 環境のエンリッチメント(改善)とは、飼育場所や管理体制の質の向上を目的とした要素を加えることです。たとえばこのような要素には、新しい床敷や(自然素材の床材など)や物体(玩具すなわち新種の物など)、隠れ場所、スキャター・フィーディング(餌をばら撒いて与えること)、動物が自然な行動を取れる機会を与えることが含まれます。動物福祉に関心のある人たちにとって、環境エンリッチメントとは、動物のストレスや常同行為など、好ましくない行動の兆候を軽減し、動物たち自身もこれらの恩恵を感じ取れるようなものということです。(動物たちはこれらに関わることに満足感を覚えます)。このプレゼンテーションでは、なぜエンリッチメントが必要か、またそれが動物園の動物にどの様な(おそらくは思いもしなかった)利益があるかをお話します。

  まず初めに、野生動物にとって飼育下で生きることがどういうことであるかを述べます。飼育下にある動物は、野生で生きる同じ種の動物より長生きすることが多いのです。なぜならこれらの動物は他の捕食動物から守られ、病気や怪我の際には手当てを受け、干ばつや飢餓を経験することもないからです。しかし飼育下で生きることは、動物に多くのストレスとなり得る原因をもたらします。同じ檻の中にいる他の動物と密接に生活しなければならないことや、適切な考慮がされていない檻の配置により、それらの捕食動物(天敵)と強制的に近くにいなければならないこともあります。さらに人間と密に接しなければならないこと(動物によっては人間を捕食者とらえているものもあるでしょう)、穴掘りや狩り、飛行などの自然、かつ場合によっては必要な活動(行うことによって本質的な満足感が得られる活動)が行えないこともストレスの原因となります。飼育下での飼育のプラス面がマイナス面よりも多いかどうかは動物園、囲いの種類、動物の種によって異なります。またこの飼育状態が動物にもたらす影響はその動物が野生から連れてこられたか動物園で生まれ育てられかによっても異なります。

  環境状態が適切でない場合、どのようになるのでしょうか。常同行為は、世界にある動物園にいる数万、あるいは数十万の動物に見られます。常同行為には同じ所を行ったり来たりすること、頭部を揺らすこと、食べ物の吐き戻しと再摂取の繰り返しなどがあり、このような行為は自閉症や統合失調症などの精神病のある人に見られる異常行動に類似しています。こういった行為やその他の捕獲下飼育の悪影響(低い繁殖成功率、高い乳児死亡率、時には低い成獣生存率など)は、これらは動物の苦しみの現れである可能性があることから、倫理的問題であり、また優良な動物園としての目標や理想の実現を妨げる現実的な経営問題でもあります。環境の改善、エンリッチメントによって、どの様にこれらの問題を軽減あるいは無くすことが出来るかを紹介したいと思います。また、具体的な成功や失敗例を交えながらこれらの改善が主にどの様に作用するかを概説します。

  最後に、研究動物(実験用ラット、ネズミ、キンカチョウなど)についての科学的調査を踏まえながら、飼育下で飼育されている野生動物に環境エンリッチメントがもたらす、さらなるプラス面を説明します。ここでは普段生活している檻(ホームケージ)から出たときのストレス要因(人の手で扱われているとき、移送の際など)により良く対応する能力、病気に対する抵抗力の向上、飼育者による初期での病気発見率の向上、脳機能の向上、認識能力の向上、さらに繁殖相手のための異性動物を惹きつける魅力の向上について紹介します。動物園の研究おいてこれらのプラス面は、今後の非常に興味深いテーマであり、上手に環境エンリッチメント(改善)を用いることがいかに不可欠であるかを再認識させてくれるものであります。

 

「上野動物園における環境エンリッチメントの先駆的試み」
堀 秀正氏
 (恩賜上野動物園 飼育展示課 東園飼育展示係長)

上野動物園では、1999年から環境エンリッチメントに取組み、日本の動物園における普及に一役買うこととなった。その先駆的事例のひとつとして、ジャイアントパンダの環境エンリッチメントを紹介する。
「野生のパンダ」(G・シャラー、胡錦矗、潘文石、朱靖著、熊田洋子訳、どうぶつ社、1989)によれば、野生のジャイアントパンダは1日のうちの50%以上を採食に費やすという。粥などの人工的な餌を与えられる動物園のパンダは、主にタケを採食する野生のパンダに比して、1日のうちで採食に費やす時間は著しく短い。そこで動物園での行動の時間配分を、わずかでも野生に近づけることを目的に、給餌方法を一部変更して、採食時間の延長を図る環境エンリッチメントを実施した。
対象個体は当時14歳のオス(愛称「リンリン」2008年4月29日死亡)で、1日に2回、午前と午後に500gずつ与えていたサトウキビの給餌方法を次のように工夫した。

1.直径8~10cm、長さ30cmほどの両端が節で塞がった竹筒を用意し、その一方の端に鋸で三角形の穴を開け、この中にサトウキビを入れて与える。
2.直径3~5cmのタケの枝を払い、一方だけ節を残し、他方は開放になるように切断し、この中にサトウキビの小片を堅く詰めるから与える。
3.餌として与えるタケを室内に寝かせて置くのではなく、各所に立てて置き、枝の先端を剪定鋏で斜めに切って鋭利な断面を作り、これにサトウキビの小片を突き刺して与える。
4.サトウキビの小片や2)で示したサトウキビを詰めたタケを室内各所に隠す。
 以上のような工夫を行ったところ、実施前は1回の給餌でサトウキビを食べ尽くすまでの時間が平均9分間だったのに対し、実施後は約20分に延長された。また、室内で何もせずに休息する時間や、同じところをウロウロと往復する行動が少なくなり、室内各所を嗅ぎ回るなどの行動の変化が見られた。

 

「アフリカゾウのエンリッチメントの実際」
鈴木 哲哉 氏
 (名古屋市緑政土木局 東山総合公園)

 野生でのアフリカゾウは1日のうち約70%の時間を採食のために費やすといわれる。動物園で暮らすアフリカゾウにおいては、体重管理のため制限された量のえさしか与えることができない。しかし制限された量のえさでは、すぐに食べ終えてしまい時間を持て余したアフリカゾウは同じところをまわる、首を上下に振る、体を揺らすなどの常同行動が長時間にわたってみられるようになる。

 東山動物園では、飼育しているアフリカゾウのケニー(メス 36歳)の動物園での生活を豊かにするために、採食時間を延長することと、採食のために探索する行動を引き出すことを目的とした環境エンリッチメントに取り組んでいる。
方法として給餌回数を3回から8回に増やした。また採食のために探索する行動を引き出すために各回の給餌の際にえさを隠す、えさを袋に入れる、えさを土の中に埋めるなどの給餌方法を工夫した。これらの方法はその他に約30種類の給餌方法がある。

 ケニーへの効果を長期的に持続させるために約30種類の給餌方法の中から数種を選定して週間エンリッチメントメニューを作成し、毎日変化を持たせたエンリッチメントを行っている。

 その効果を評価するために1年間の放飼場においての行動調査を行った。その結果、約70%の時間を採食および採食のための探索する行動に費やすことがわかり、常同行動はほとんどみられなかった。このことからこれらのエンリッチメントは動物園で暮らすアフリカゾウの生活を豊かにすることが証明された。

 現在、採食に関わるエンリッチメントのほかに、新たに味覚、聴覚、触覚、嗅覚に対するエンリッチメントも取り入れてアフリカゾウのケニーの福祉の向上に努めている。