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2015.04.28

【報告】第79回 日本獣医史学会研究発表会

「第79回 日本獣医史学会研究発表会」報告

日時:平成27年4月18日(土)13:30〜17:10
場所:東京大学農学部フードサイエンス棟1階講義室
演題
1.「カイウサギ(アナウサギ)の日本飼育史の検討(江戸期の絵画から)」
桜井富士朗 先生  座長:中山裕之 先生

2.「帝国日本の軍馬政策と馬生産・利用の近代化」
大瀧真俊 先生  座長:小野寺 節 先生

3.「史実の犬塚二題:(1)牧野忠辰の義犬『かふ』の墓、(2)オールコックの愛犬「トビー」の墓」
小佐々 学 先生   座長:倉林恵太郎 先生

4.「Johanes Ludwig JANSON の生涯」
中山裕之 先生  座長:小佐々 学 先生

 

 

第79回日本獣医史学会が、春らしい陽気の中、開催されました。理事長の冨永が評議員を務めさせて頂いております。

 

最初の演題では、日本に居る4種類のウサギのうち、一番良く目にするカイウサギ(アナウサギ)は、いつ頃日本にやって来たのかというテーマでした。私達も何となく、白いウサギと言えば、目の赤いカイウサギを思い浮かべますが、在来種として広く分布するノウサギは、白いものでも目は黒く、そこがひとつの見分けるポイントとのことです。一般には、飼育開始時期は明治初頭とされているそうですが、南方熊楠の『兎に関する民族と伝説』で、兎(ノウサギ)がヘアーで、熟兎(なんきん)がラビットとあり、明の時代に中国に渡りその後日本へも渡ったらしいという記述があり、更に、圓山応挙の『百兎図』(天明4年、1784年)には、白毛で赤目の白色種がそのうち3分の2を占めており、また、ノウサギは単独生活で群れを作らないことから、アナウサギ飼育史で年代を特定できる一番古い資料であるということでした。

因みに、因幡の白ウサギの絵では、多くが、目が赤く描かれているということで、私達にアナウサギが如何に身近な存在となったのかも窺い知ることが出来ました。

 

2題目は、近代化に伴う帝国日本軍の馬の動員の農家への影響に付いてです。日清、日露戦争の時は、主に騎乗用でしたが、アジア・太平洋戦争になると、物資輸送用が主体となり、需要が増大します。戦場では、川を渡ったり、道無き道を行くため、自動車では難しかったこと、燃料は飛行機の方へ廻されたこと等が増大の理由です。

日本の馬150万頭のうち、50〜60万頭が動員されています。

在来馬は小さく、近代軍隊の軍馬として不適とされ、馬匹改良(血統改良による大型化)が行われます。わずか30年の間に、12%だった洋・雑種化率は97%になります。これは種牡馬検査法(1897年)により、体高1.45mの種牡馬の供用を禁止し、種馬所を作って民間に供用したことや、軍馬購買事業で相場の2〜3倍で軍が買い取るという方式(軍馬御用)で可能となりました。

しかし、農家に取っては、改良馬飼育は、売上げは大きいものの、経費が掛かり、利益の少ないものでした。農林省畜産局は、利用の高度化を推奨しますが、狭小な農地しかない小規模な農家は、経済性の高い小さい馬の方が良く、改良馬は、負担となりました。

軍馬を第一義とした『上から』の近代化でしたが、流通においては、国家が大量動員に際し、徴発馬補充事業として、共同購入に際し、国が輸送費・購買員旅費を補助したため、従来の家畜商を排した産直・長距離取引を可能にし、流通の合理化は促進しました。

当時、陸軍獣医学校があり、最高位は中将で、これは人間の医師と同じだったそうで、如何に軍馬が戦争で重要であったかが判ります。

しかし、従軍者の記録には、大陸に一緒に渡った馬や牛や犬達を、1頭も連れ帰ることが出来なかったという記述もあるそうで、終戦70年を迎える本年、改めて、二度とこのようなことが起こらないように、平和を守っていかねばならないと思います。

 

3題目は、犬のお墓(犬塚)にまつわる2つのお話です。日本最古の犬のお墓は、日本獣医史学会理事長の小佐々先生とお姉様の柴内裕子先生のご先祖である小佐々家の義犬・華丸のもので、義犬・華丸は、長崎県大村市のキャラクターになっているそうです。本題では、長岡藩主・牧野忠辰の愛犬「かふ」が、尾張公の唐犬(洋犬)に飛びかかった件で、お互いに、表沙汰にならないように隠したものの、江戸に連れて来ていた主人がかふを叱ったため、かふは、国元の前の主人の元へ返るのですが、主君の御意に背いて帰って来たのではと追い出したため、江戸から、かふを労るようにと報せが届いた時には、かふは、亡くなっていたと言う話です。生類憐みの令が発令された頃の出来事で、その影響があって起こった経緯ということです。

もうひとつは、サー・ラザフォード・オールコック(英/医師・初代駐日総領事)と愛犬トビーのお話です。オールコックは、日本で初めて富士山に登った外国人ですが、その際、こちらも初めて熱海に滞在します。将軍家所縁の地であり、当時は大変なことだったようです。オールコックは、愛犬トビーを伴って来日していましたが、この時、熱海の大湯間欠泉でトビーは熱湯を浴び、亡くなってしまいます。熱海の人々は、人間と同様に経帷子に包んで埋葬し、寺の僧侶も招いて弔いました。

当時、薩英戦争や外国人殺害事件等、日英関係は、危険な状態でしたが、オールコックは、トビーの死に対する熱海の人々の対応から、日本国民の大部分は、平和的で礼儀正しい信仰篤い芸術的に優れた人種だと報告して、日英関係の改善に力を尽くすようになったとのことです。

英国で最も古い犬の墓は、トビーから12年後、1872年スコットランドのスカイテリア『ボビー』のお墓だそうです。

日本では、大名・旗本や豪商等上流階級の愛犬が墓石を立てて埋葬されていたようで、キリスト教徒のオールコックが、犬の墓を建てたのも、このような影響があるかもしれないとのことでした。

日本の犬のお墓は、以外と主人の近くにあるようなのですが、ボビーのお墓は、お墓の敷地の外に建てられたとのことで、ちょっと意外な気がしました。

 

4題目は、駒場農学校(後に東京帝国大学農科大学)で教鞭を執られたヨハネス・ルードビッヒ・ヤンソン先生についての発表でした。

1880年10月22日、イギリス人ジョン・アダムス・マックブライト先生の後任として駒場農学校に31歳で着任されます。解剖学、病理解剖学、内科学、外科学、伝染病学、防疫学、乳肉検査、飼育学、産科学、寄生虫学の講義と病院での臨床実習を担当されます。同年には、同じドイツからトロエスター先生が来日され、生理学、薬理学、眼科学、組織学、装蹄学、ラテン語を教えられたそうです。授業は英語だったとのことで、現在、グローバル教育の強化がいわれますが、ただ感嘆です。また、駒場農学校の卒業生によって執筆された、日本語で書かれた最初の獣医学教科書『家畜醫範』を校閲されました。和紙に木版で印刷され、各3巻の解剖学、生理学、薬物学、内科学と、各2巻の外科学、産科学からなっています。

1887年、日本の獣医学教育への貢献により勲四等旭日章。1901年、鹿児島出身の谷山春子(ハル)さんと結婚。一男二女。東京帝国大学を退職後、一時帰国しますが再来日され、盛岡高等農林学校へ赴任。1907年帰国後、1910年婦人の故郷である鹿児島に移住。第七高等学校に赴任。1914年、65歳で亡くなられます。

昭和10年、弥生キャンパスに移設されたヤンソン先生の胸像は、2014年9月、優駿会(東京大学獣医学・応用動物科学同窓会)のご協力により、動物医療センター前に移築されています。

農学部入り口の上野先生とハチ公の像と共に、東京大学農学部に行かれた際には、是非、ヤンソン先生にも、お会いして頂ければと思います。

この後、懇親会が行われ、和やかにご挨拶や情報交流が行われました。

 

※日本獣医史学会のウェブサイトはこちら

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